2011年12月20日火曜日

倶進Vol.23

私の愛した国境の町San Antonio

S38卒 志村稔

私は昭和38年3月に日本学園高等学校を卒業後、某大学に入学したのですが直ぐに中退し、思いあってヴェネズエラ共和国へと飛立ちました。卒業生の方も日本人の方もあまり体験されたことがないと思いますので、私の南米ヴェネズエラ共和国国境の町サン・アントニアオでの生活等体験したことをブログに投稿してみました。

昭和38年10月15日、肌寒くなり始めた羽田空港を当時流行った舟木一夫の「高校三年生」の曲をバックに聞きながらタラップに乗り、一人日本を飛立ちました。当時南米へと行く日本人は殆どいませんでした。私が強く南米へ行こうと思い立ったのは、私の父が戦時中、南米ペルー国で仕事をしていました。そして日本に帰国後の終戦前、昭和20年2月に亡くなりました。昭和19年9月生まれの私は父の顔を覚えておりません。母や親戚の方々からは、アメリカで仕事をしていて亡くなったと聞かされていました。その後、時が経つにつれ真相がわかり、父が仕事をしていた南米の地とはどんな所かが知りたくて日に日にその思いが強くなり、大学を中退してまで母一人、日本に残して南米に飛び立つことは心残りがして散々悩みましたが、最後には母が「あなたの人生だから好きにしなさい」とひと押ししてくれ、やっと南米の地ヴェネズエラ共和国へと旅立つ決心がつきました。ヴェネズエラ共和国には昭和38年から昭和62年まで24年間在住し、昭和62年に家族4人で帰国しました。

当時(昭和38年)は羽田空港からサンフランシスコ経由でヴェネズエラ共和国マラカイボ空港の22時間かけて到着し、そこから更に車で10時間かけコロンビア共和国の国境の町ククタ市とヴェネズエラ共和国の国境の町タチラ州サン・アントニオの町へとようやく到着した。そしてこの町で生活することになった。

国境の町・サン・アントニオ地図

仕事は南米と主に貿易していた南里貿易(日本)に入社し、たまたま取引先が私の叔父の店(サン・アントニオの町)とあり、日本の駐在員としてサン・アントニオの町に勤務することになった。南米の地での勤務は希望がかなったが、現地での仕事は貿易とは名ばかりで、朝4時半から夜7時までの荷役運搬が主で過酷な肉体労働そのものでした。それに加え、ヴェネズエラ共和国に着いてからの数年間は食生活、生活習慣の違い、言語(スペイン語)の不慣れによる会話不足等のストレス、仕事では古い日本式の徒弟制度の導入があり、あらゆる部分で日本と異なり、私を悩ませ、当初79Kgあった体重が3カ月で21Kg減り、51kgと痩せてしまいました。「なんで俺はここにいるんだろう?」と自問自答する日々でした。一時は帰国することも考えましたが、男が一度決めたことを破るわけにはいかないと自分を奮い立たせ、何とか乗り越えることができました。このように辛いことが多くありましたが、その度に遠い故郷の空を眺め、母のこと、日本で過ごした高校時代のことを思い出しながら、日本学園校歌「日校健児」を唄い涙したものです。


日本学園正門にて(写真左から事務員の剣持さん、川本君、私) 昭和38年

当時のヴェネズエラ共和国では、石油景気で富裕層はこの景気に沸いていたが、実際の一般国民においてはドル不足等により、南米各国共通で貧困であった。それ故、南米各地で人気のあった日本製品の密輸が頻繁にあり、国境の川を子供達が運び屋として使われていたり、アンデス山脈を越えて密輸品が各地で横行し、国自体はかなり荒廃していた。

ヴェネズエラの国境の橋。右上がコロンビア。橋の真中に国境があります。

私が踏み入れたヴェネズエラ共和国の当初は辛いことばかりでしたが、歯を食いしばり頑張ったせいか、時が経つにつれ仕事にも慣れ、言語も上手になり、会話もスムーズにこなせるようになった。現地の友人も多く出来、若い頃は恋人もでき、ダンスパーティーなど多く出席したものです。とりわけ友人達の中で印象に残っているのは、今でも親友であるストリートチルドレンから銀行頭取、流通外食レストランのオーナーであるエドワール氏、そして私がヴェネズエラ共和国で商売の“師”と仰ぐ首都カラカスをはじめ、ヴェネズエラ国全土に販売ルートを持ち、大きな店をいくつも経営するハイメー・メイジャル氏。両氏とは現在も親交があります。その他の財界人、現地の友人達と多く知り得たことは、私がヴェネズエラ共和国で得た貴重な財産です。南米の地に来て辛いことも多々ありましたが、今になっては私の人生においてサン・アントニオの町は一生の思い出の町であり、愛する町であります。

サン・アントニオ空港

サン・アントニオ税関

また奇遇にもヴェネズエラ共和国で日本学園高等学校・昭和33年卒業の三宅田先輩と偶然知り合い、日本のこと、母校のことなど、話に花を咲かせたものです。三宅先輩とは帰国後も時々お会いしています。


ペレ氏とのショット 2002年6月20日

写真は2002年日本で開催されたワールドカップで来日したサッカーの王様と称されるブラジル国のペレ氏とペレ氏の友人であり、私の師であるハイメー・メイジャル氏らと撮った時の記念写真です。(写真左から私、ペレ氏、ハイメー・メイジャル氏、ハヤカワ先輩)。現在、私は在日ヴェネズエラ共和国協会々員、ヴェネズエラ共和国親睦会幹事をしております。


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3 件のコメント:

タンタン さんのコメント...

ブログをいま拝見しました。
こういう同窓がいらっしゃるんですね。
すばらしい人生選択じゃありませんか。
あの頃だから、決して平坦な道のりだとはご本人も思っていなかったでしょう。『為せば成る』を地でいったような生き様です。
感動しました。こういう方の『熱き恵み教室』での講話も考えなくては。

匿名 さんのコメント...

記事を読みました。感動しました。この時代、志村さんを筆頭に海外でご苦労された先輩方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。辛いこともたくさんご経験されたようですが、その努力が現在の素晴らしい人脈やご友人のネットワークにつながっていらっしゃる。在校生たちにも、ぜひ聞かせたい貴重な体験だと思います。ますますのご成功をお祈り申し上げます。日学OB

青蛙 さんのコメント...

新聞部で一緒でした。よく頑張ってこられたものと思います。
 同窓生として誇りに思います。
   S37OB