2012年11月19日月曜日

日本学園校祖「杉浦重剛先生あて書簡59通発見」と   OB今井兼次博士「日本二十六聖人記念館」

去る10月16日から3日間、所用で島原市及び長崎市に行く機会があり、その際、昨年秋に長崎新聞、西日本新聞に「杉浦重剛先生あて書簡が59通発見」の記事が掲載されたことを思い出しました。そこで「長崎県雲仙市生涯学習課」へ電話で問い合わせたところ、書簡は雲仙市の中心地にある小浜温泉から、南へバスで20分ほどの「雲仙市歴史資料館南串山展示館」に展示されているとのことで、同展示館を管理されている雲仙市文化財保護審議委員会の茂和御夫妻をご紹介いただきました。16日は会議があるため午後5時以降にしていただけないか、とのことでしたので、島原市からバスを乗り継ぎ、約2時間をかけて伺うことになりました。

 雲仙市歴史資料館南串山展示館 

茂様にバス停まで迎えに来ていただき、資料館を訪ねました。展示館には肥前国高来郡串山村(現・長崎県雲仙市南串山町)の庄屋であった馬場家の十二代当主・馬場是一郎氏(1870年~1930年)が収集した書簡、書、絵画など約500点が収蔵されています。

 展示館内部 

杉浦先生の書簡は、平成13年に旧南串山町に寄贈されたこれら収蔵品の目録を作成する過程で平成22年2月に見つかりました。是一郎氏は東京帝国大学卒業後、朝鮮総督府に勤務されましたが、杉浦先生との接点はなかったと思われるとのこと。発見された書簡は、発見者である「島原文化史研究所」代表の吉田信也氏(元福岡市総合図書館学芸委員・京都大学大学院文学研究科を修了)により、史学研究の学術誌『史林』に59通全文を解説と共に紹介されています。

馬場是一郎氏(1870年~1930年) 

書簡の差出人は44人で、明治を代表する言論人の陸羯南、専修大学創立者の相馬永胤、外交官で昭和天皇の侍従長となった珍田捨巳、「紀元節」を作曲した近代音楽の開拓者、伊沢修二、貴族院議員で鹿児島、宮崎両県知事を歴任した千頭清臣など、往時の官僚、教育者、軍人、言論人などの名が見られ、内容も面会の約束、礼状、近況報告など多岐にわたっています。その一部は昨年10月から同展示館で他の収集された資料と共に展示されています。帰りには茂様に雲仙市の
中心の小浜温泉まで送っていただきました。茂様には、この場をお借りして感謝申し上げます。

本居直臣から杉浦先生宛書簡 

翌日は長崎駅近くの西坂の丘の「日本二十六聖人記念碑」と、その背後の同記念館及び道を挟んで建つ聖フィリポ教会を訪ねました。

日本二十六聖人記念碑 

これらは本校を大正2年に卒業された早稲田大学教授の今井兼次博士の設計によるもので、昭和37年に建設されました。記念碑と記念館は各所に熟考された部分が多々見られ、特に聖フィリポ教会を挟む二本の塔は、先生が東京の地下鉄設計のため、欧州を視察された際、バルセロナでガウディーの陶片モザイクに接して感動され、日本にいち早く紹介した技法で造られています。今年は建設後50年にあたりますが、その色彩は色あせることなく威容を誇っています。

日本二十六聖人記念館

梅窓会 副会長 S34卒 宮原

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

真っ青な空に二十六聖人記念館の塔が素晴らしく映えますね!現代でも輝きを失わない造形美、見事です。